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かもしれない。こともある。と、断定を避ける書きぶりが特徴的だった。学者であるから、悲しみについて定量的な評価が求められる場合も多いだろうが、悲しみはやっぱり定量化できないしすべきでないというのが著者のスタンス。
最近は年のためか、周りでも結婚が話題になることが増えてきた。簡単に祝福すべき門出に触れる機会が増えるのと同時に、きっと別れの悲しみにもさらされることが増えるだろうと想像している。職業的にも。
実習でも、そういう場面には何度か遭遇した。筆者は、第三者としてのグリーフケアには時間の余裕が必要だと説いたが、果たして自分に、余裕を持って遺族に寄り添えるのか、不安だ。実習でみた光景はすごくつらかった。
もとより、6年も通った大学では病を抱える主体との向き合い方は学べど、遺族との関わりについてなんの指南ももらえなかった。筆者は「大往生でしたね」が遺族の怒りをかったケースを紹介していたが、ではどんな言葉をかけられるだろう。
いろんな方針で感想文を書けそうだったけど、まとまりに欠くので一旦止める。
物語でなく論説なのに、ところどころ目頭が熱くなった。年か。
年で涙もろくなる、ってのは、本当にそうだなってことも感じた。というのも、経験こそが共感の源だと思うから。遺族のセルフサポートグループが紹介されていたけど、まさにこれ。みんなが全く同じ体験をしたわけではないのに共鳴できるというのは、ある事象のタイトル(親族が自殺した)と辛いという感情の2点を確実に承認できるから(タイトルを共有できないと浮ついた共感=ただの想像になる)。
年を取ればさまざま経験が増えるから、心の琴線が多くなるんでしょうね。あれもこれも、自分の体験と結びついて困る。
時間の余裕というのは、短期的な解決を求めないということなのかしら
真の意味のタイムパフォーマンスを求めるならば内面を見つめ直す時間が必要だと常々思う所存
俺は映画で予想通りの展開が来ると泣けるんだけども、それも自分の体験として落とし込んでいるからかしらん